以前にも、安全と安心について取り上げたことがあります。 こちら
食品を語る時に、「安全と安心」というように、ひとくくりで語られることが多いのですが、実は、この「安全と安心」は似て非なるものです。
サイコロジック的に言わせていただくと、安全は論理、安心は心理によると言えるでしょう。
今、東北のがれき処理についても、まさにこの安全と安心の間で議論になっています。
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サイコロジック土曜塾
次回は2012年3月10日(土)18時から 東京大崎で開催します
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安全とは、客観的に証明できるもの。たとえば、食品に関して言えば、大腸菌が検出されないなど、数字で表すことができるもの。そして、定められた基準に対してその数値が安全の範囲内と認められたものをいいます。
一方、安心は、心理の問題です。安全と言われても、定められた基準そのものに対して、不安があると、いくら数値的に問題がなくても、「安心ではない」ということになります。
また、数値が安全であっても、その数値の安全のレベルに不安がある、将来にわたり、蓄積などにより健康被害が起きるのではないか、といったことによっても「安心ではない」ということになります。
この安全と安心は、共に語られることが多いのですが、実は安全=安心とはなかなか成り得ません。
今回は、食品ではなく東北地方のがれき処理について考えてみましょう。
がれき処理が進まないことで、復興もまだまだ先は遠い状況です。
福島県および周辺地区のがれき処理を他県で協力をという動きも、地元住民の反対にあってなかなか進んでいません。
なぜ、こうなのかというと、まさに「安全と安心」が違うからです。
放射能の値を測定し、「安全レベル」といわれるがれきを、受け入れようとすると住民から強烈な反対を受ける。この反対の根拠は、将来にわたり安全が確保されるかどうかわからない、つまり「安心でない」というものです。
早急に復興をするためには、福島県や周辺地域だけでがれきの処理をするというのは、物理的には不可能です。ということは、他のエリアでがれき処理を多少なりとも担わないといけないということになります。
「絆」という言葉ががれき処理に関しては、空しく響きます。
受け入れ地元住民のエゴとの批判もありますが、「安心」というのは、あくまで心理的なものですので、「安心」と感じてもらうためには、それなりの根拠をしっかり示す必要はあると思います。
原発事故以降、専門家と呼ばれる人がたくさん出てきて、「安全だ」、「いや危険だ」とコメントしています。じゃ、真実はいったいどうなんでしょう。
安心への道は残念ながら遠いですね。
私個人としては、痛みを共有すべきと思います。
ただ一方で、受け入れ地区で、小さいお子さんを持つ親の気持も理解できます。
少しでもその親が「安心」と感じてもらえる「安全」を示すことがもっとも今大事だと考えます。