最近のニュースを見ていると、人間の本質的な部分(生き方)を問われているような気がします。
原発事故。脱原発すべきという意見。脱原発はコストもかかり、温暖化対策の問題もあり実質的に不可能という意見。脱原発でなく、段階的に減らす減原発すべきとの意見。いろいろな意見が出てくるのは仕方ないと思います。これは、今後もかみ合わないでしょう。物事をみる尺度が違うのですから。産業の空洞化やコスト増を主張する人は、「今」や「自分、自分達」を根拠にしているし、「健康や不安」は「将来」や「子どもや子孫」が根拠。
内戦が続くソマリアでは、大干ばつの影響で、今この時点で400万人近い人が飢餓による生命の危機に瀕しています。
一方で、年間1,000万トンを超える食料廃棄物をだしている日本。 少しでも安心感のないもの、新鮮さのないものは商品にならない。さらに、価格競争。
これらのことは、すべて人間が生活していく上での出来事ですが、あまりにギャップがありすぎることにいろいろと考えさせられます。
・究極の選択
ソマリアでは、飢餓による明日の命の危険性が起こっています。原発事故の影響で、汚染の疑いのある牛肉は、国や県が買い上げて焼却処分。この牛肉をソマリアに持っていくとしたらどうか。
これは、まさに「究極の選択」です。 あなたならどう考えます?
日本人が食べない「汚染の可能性」がある牛肉をソマリアに持っていく。 この行為に対してモラルがなく言語道断と非難しますか? あるいは、遠い将来、放射能により影響が出るかもしれないものの、今日明日食べることで生き残ることができ、数多くの命を救うことができるということを是としますか?
牛を1kg育てるのに、餌となる穀物が11kg必要といわれています。 牛のためにではなく、人のために穀物を提供すれば、飢餓も少なくなるかもしれません。 しかし、自由経済の中では、ありえないことです。寄付や援助は、お金を得るための経済活動の結果としてでてくる手段だと思います。 その意味では、飢餓の国の人より豊かな食事を提供するために牛の方が大切というのは、仕方ないことでしょう。
・飽食が生活の一部
スーパーに行くと東北地方の災害がうそのように、あらゆる商品が並んでいます。私たちが買うというのは、選択をするということです。その選択をしやすいようにするために「食品表示」があります。
その食品表示に誤りがあると、食品自体には問題がなくても、回収して廃棄処分となります。
食べ残しや、期限切れなどで家庭から廃棄される食品だけでも年間なんと1,000万トン。これに企業などの事業系廃棄物がさらに1,000万トン出されていると言われています。
私たちが、生活していく上では、すでに「飽食」当たり前のことになっています。
生活の一部になっています。
・日本の1年間に出される食料廃棄物でソマリアの飢餓に直面している人を9年間食べさせられる
あくまで単純計算してみます。
ソマリアの飢餓に直面している人一人が1食あたり 500g 食べるとすると、1日1.5kg
年間だと547.5kg (約 0.55トン)になります。
400万人の食べられない人がいるとすると 1年間に220万トンの食料が必要ということ
1年分の日本の食料廃棄物で9年間食べられることになります。
・じわじわ広がる原発の影響
最近、福島第一原発の状況がどうなっているのか、これはほとんど報じられていません。しかし、原発事故から4カ月以上経ち、その影響は様々なところに広がっています。
水素爆発から始まり、海への微量放射性物質の放出、指定地域の住民避難、農産物の出荷停止、今は汚染稲ワラをエサにした牛の出荷停止、全頭検査、それらに付随して、地域コミュニティーの崩壊、引っ越し、転校による人の流出、農畜産業への打撃、たぶんこれからもいろいろなものが出てくると思います。
こういう状況で我々はどう生きれば(考えれば)いいのか悩むところです。